Akiapola'au

読んだ本のメモ ネタバレは自衛してください

2023/11

11/7

京極夏彦『絡新婦の理』講談社文庫

長い~。要素が多くてストーリーが長いのはよいとして純粋な水増しとしか思えない文章も多くてつらい。榎木津が出てくるとめんどくさくてほとんど読み飛ばしてしまう。
操りがこんかいのメインテーマだけど、なんか都合よく話が進みますな~と思い続けて終わった。駒が失敗することも計算の上での壮大な操りな構図なのだ~みたいなのでじゃっかんの言い訳はされているが犯行にほころびがあっても蜘蛛による駒の動機付けには失敗しないのでいやそっちの方が難しそうじゃんね……と思ってしまう。動機があらかじめある人間を選んでるにしてもさ……。 あと駒各位のキャラクターがあんまり惹かれない小物の集まりで、それは駒は計画のパーツでしかないからかれらじしんの物語になってしまうと困るというのもあるが、でもなんだかねぇ。
どうせ現実味がないのは百鬼夜行ではいつものことだけど、魍魎とか鉄鼠は異常な動機のほうがメインだったから、じっさいに事件が起きてしまえばなっとるやろがいで押し切られるところもあったんだけど、
絡新婦は操りという実現性に大きな興味の寄せられるテーマだったからちょっといつもよりさらにご都合主義展開じゃんと感じられてしまった。
ミステリ部分はさておき蘊蓄部分。
学園の真相は鉄鼠と同パターンやんけというかんじ。六は図だけど七は数えるものってのは……たしかにそうだね。考えたこともなかった。
性道徳の憑き物落としについてはおもしろかった。あたしも大昔に赤松啓介とか読んだ記憶がおぼろげにあります。にしても歴史的な暴露論法をくらってもほとんど主観的には揺らがないのが道徳のすごいとこだよな。

11/13

ジョルジュ・デュメジル『デュメジル・コレクション 3』(ちくま文庫)

イランの話だ~。ゾロアスター教もマニ教もなんとなく宗教改革者のシステマティックな意図が感じられるのが面白いところだ。

11/15

桜井好朗『祭儀と注釈―中世における古代神話』(法蔵館文庫)

ん~むずかしい! 文体が……独特じゃないか? 90 年代の人文学者ってみんなこんなかんじ? と思ったが、あとがきでも独特といわれてたのでやっぱり独特だよね……と思った。
歴史が神話になって祭儀がそれを表現して本義を失って注釈が変容して……みたいなめんどくさい話をもとの歴史がどうだったかも闇の中でやってるひとたちはすごいと思います。
話の中身については……もうちょっとわたしが古代史勉強してからじゃないとよくわからないというのが……率直な……

11/20

アレクサンダル・ヘモン『ブルーノの問題』(書肆侃侃房)

ヘモンについては『青白い炎』読んだときにいろいろ調べてたら注釈多すぎ小説リストみたいなのを挙げてるのをみて*1、そのなかで"The Sorge Spy Ring"の名前が出てたので気になってたのを『愛と障害』よんでふ~んあんま作風はナボコフっぽくないねと思ってけっきょく The Sorge Spy Ring も読んだが TSSR はおもしろかった。
難民の文学とか第二言語で書かれた文学とかいわれてもあんまりそれだけで興味があることはないというか、ふーん、けっきょくおもしろいんですか?というのが正直なところで、
治安が悪化するユーゴで過ごした幼少期~みたいなのを素直にお出しされる短篇群はう~んというかんじ。「ゾルゲ諜報団」はそのまま書けば幼いころスパイなんじゃないかとこっそりじぶんでも疑っていた父がじっさいに政治犯として逮捕されてしまったというエピソードに注釈で実在の大スパイであるゾルゲの話を乗せることで屈折しておもしろい。

11/20

夏海公司『はじまりの町がはじまらない』(ハヤカワ文庫 JA)

ラノベ作家を呼んできて JA で書かせるシリーズ。
あらすじをみてさいしょに思ったのはなろうナイズされたグラン・ヴァカンスだな~という印象なのだが、まぁけっきょくグラン・ヴァカンスではなかった。それはそうか……。
ユーザーが少なすぎてサービス終了間近のネトゲで NPC がなぜか自我に目覚める。じぶんたちが NPC であることに気づいたかれらは、ゲームデザインもバランスもクソゲーとしかいいようのないこのゲームを改善してユーザーを増やせばサ終を免れるのではないかと考えて奮闘するというのがあらすじで、この小説の前半の推定おもしろポイントは

  1. ゲームや NPC という概念すら知らない NPC が世界の謎に気づくミステリ要素
  2. クソゲーを改善してユーザーを呼び込む領地経営もの要素
  3. 毒舌キャラであるヒロイン

だ。ところで 1. はほとんど超人としかいいようのないひらめきで秘書のパブリナがぜんぶ気づいて主人公に解説してくれるし、2. についても街の建物や NPC の配置がユーザーフレンドリーじゃないから再配置しましょう、敵が強すぎるから叩いて弱くしましょう、クエストがつまらないから作り直しましょう、そのへんはぜんぶ有能な秘書がうまいことやっておきますというもので、ひねりがなければおもしろくもない。スピード感だけはあるので退屈ではないが。
そもそも出てくるネトゲがぜんぜんリアルじゃないというか、舞台はあきらかに 2020 年代(後半出てくるガジェットとかから明らかだ)なのに、ネトゲはどうもゼロ年代なかばくらいのゲームっぽい。いやまぁだから過疎ったんじゃないのとかもいえるけど、にしたってゼロ年代なかばのあんまり面白くないネトゲらしさというのもない。ネトゲに対する解像度が低いのだ。
当時のリアルなネトゲのゴミ要素を出すなら、敵が強すぎるとかマップが広すぎるのに NPC 密度が低すぎる、とかではなくて、レアドロの素材を集めてやっと行える武器強化が運で失敗するとか、レベルアップに必要な経験値が尋常じゃないくらい多いとか、全体チャットで toxic な発言をするプレイヤーがいるとか、bot のせいで狩場が崩壊してるとか、そういうかんじになるんではないか。
で、3. の毒舌ヒロインだが……おもしろい毒舌って難しいよね。

さておき話が後半、ゲーム外の世界とつながってくるとややおもしろくなってくる。
ユーザーを増やしたはいいものの、課金額が足りなければサ終は免れないとわかったパブリナが取ったある行為で別の方面からこのゲーム世界の存続を怪しくしてしまうが、なんやかやでこれまで受け身だった町長が起死回生の策を思いついてなんとかしてしまう。
いくらなんでもパブリナの独断専行が過ぎるとかいろいろあるけどちゃんと窮地に陥ってちゃんとハッピーエンドになるからまぁ満足。

なんというかもうちょっと紙幅があればねぇ、というのを感じる小説だった。
十年前に JA から出てたらたぶん上下巻で、上巻の半分くらいを使っていつも通り日常生活を送っていた NPC たちがこの世界はなにかおかしいと気づく、じつはじぶんたちは登場人物にすぎなくて、しかもわれわれが登場している舞台は営業不振で幕を下ろそうとしているらしい!と判明する、みたいなかんじになっていた。ちょっと方向性はちがうけど飛火野の『もうひとつの夏へ』みたいなかんじ……。
それから上巻の後半を使ってユーザーを増やして、下巻の前半を使って世界を統一して、下巻の後半を使って世界の崩壊を防ぐのだ。キャラクターもいまよりいっぱい出てきて、それぞれに作り物だけどじぶんたちが暮らしてきたこの世界に思い入れがあって、……
まぁたらればをいうてもしょうがないんですけどね。きっとこの長さ、この軽さ、このスピード感なのは現代のニーズに合わせた形なんだろう。
しかしいま 22 歳と 40 歳の恋愛といわれるとハライチ岩井さんを……想起させられるね。あれに条件反射で批判したり思い込みで嫌悪感を表わしてる人が多かったのはわ~わが国って中世だな~と思ったけど……(中世ならかえって歳の差は許されるか?)
ハヤカワも夏海先生には葉桜みたいなやつを書かせてほしいよね。

11/21

青崎有吾『11 文字の檻』(創元推理文庫)

「加速してゆく」
うわさにたがわぬ面白さだ~。額賀澪「願わくば海の底で」とか酒井田寛太郎「ワンラウンド・カフェ」とか、そういうかんじ……。じぶんの行為がぐうぜん大きな結果につながってしまったり、大きな偶然がじぶんの行為に影響を与えたり、そういうのは日常よくあることとしても災害や事故とあわさるとひとは運命を見出してしまうものだなぁというきもちになる。
バス落石事故のコピペはあのときああしていれば……というわりと単純な因果律に基づく後悔だが、これは「じぶんが死のうとしたらほかの大勢が死んで、じぶんは死ぬことができなかった」という構図がさらにもっと深いレベルのアイロニーだ。だってべつにあの子がもし死のうとしなかったところで、事故は起きなかったわけではない! それなのにじぶんだけ生き残ってしまったことになるのだ。

▼以下長いので省略。ここをクリックで開きます。 ところで、読んでて一瞬ん?となったのは動機の部分だ。あの高校生が自殺しようと思ったのは、彼女が MtF のトランスジェンダーだからだ、(そしておそらく、駅のホームで話していた男子に好意を持っていたからだ)とほのめかされている。
この小説のミステリ部分――なぜあの時間にあの高校生は駅のホームのあんな場所にいたのか――を解くために、そして、この小説の物語部分――偶然*2の大量死によって自死を妨げられた者の後悔と、さっさと飛び込んでいれば大量死は防げたかもしれないという罪悪感、そして、たとえ因果的には無関係だとしても、自死を望んだせいで大量死を引き起こしたのではないかという運命論的な畏れ*3――を読み解くために、彼女がトランスジェンダーであったという設定は必ずしも必要ない。あの高校生はいじめ被害者であってもよかったし、恋人に振られたシスヘテロでもよかった。
そこを敢えて自死志願者にトランスジェンダーを割り当てたというのはなぜだろうか? 金八先生への言及があったように、当時(金八先生の第 6 シーズンは 2001 年だ)やっとトランスジェンダーというものが存在するというのが世の中的に認識されつつあった、という文脈で出てきたものだろうか? にしては触れ方が軽い。テーマ的には報道カメラマンである主人公が「都合の悪いことを忘れ続けたら……」といっているように、福知山線の事故というテーマに絡めた必然性がないわけでもない、のか?
このへんでとうぜん脳内から反論が出てくる。「LGBTQ+ をフィクションに登場させるときはかならず意味だの理由だの必然性だの文脈が求められるのはおかしい」問題である。さっきわたしは「敢えて自死志願者にトランスジェンダーを割り当てた」と書いたが、この割り当てを敢えてのものであると認識するという事態に、すでになんらかの判断が働いていないか? という話でもある。
LGBTQ+ を描いたフィクションに「異性愛でも成り立つのに同性愛にしたのはなぜ?」「主人公がトランスジェンダーであるということが掘り下げられていない」みたいな感想が寄せられがちだというのはよくいわれていることだ。「同性愛でも成り立つのに異性愛にしたのはなぜ?」「主人公が男性であるということが掘り下げられていない」みたいな感想が間の抜けたものに聞こえるであろうことを考えれば、フィクションに LGBTQ+ が出てきたらすぐになんらかの意味だの(以下略)を求める態度がなにか不自然であることはすぐわかる。反論できるのは、作中に登場するあらゆる要素は必然性(だのなんだの)を持っていなければならないという創作・鑑賞哲学を持つ人間だけだろう。それはそれで高貴だが、これを実行できる創作者は極めて稀だ。
じゃあ、作中にぽんと意味もなく LGBTQ+ が出てきても、誤解に満ちた表現やヘイトをまき散らしているわけでもなければ、ああこのひとは LGBTQ+ なのね、とただ受け取るだけにすればいいのか――もちろん、それが望ましい態度ではあるだろう*4。それでも、現実には多くのひとが作品中に出てくる LGBTQ+ に意味だの必然性だのを求めてしまいがちなのはなぜなのか?
顕在/潜在意識で LGBTQ+ に差別意識、嫌悪感、違和感があって、作中に現れたかれらの存在に拒否感を抱いているが、拒否感を抱いていることをそのまま顕わにすることもできないから必然性を問うという屈折した形で表出している? もちろんそういう場合もあるだろう。でも、たぶんそれだけではない。
かんたんにいってしまえば、それは非当事者が LGBTQ+ を作中で扱うのは難しいからだ。そして、その難しさを自覚していること、安易にその題材を扱っていないことを保証するものとして意味だの理由だの必然性だの文脈だのを求めてしまうからだ。
とつぜん非当事者という要素を持ち込んでしまった。というのも、当事者が LGBTQ+ の登場するフィクションを創作したところで、そこに意味必然性を求めることはあまりないと考えられるからだ。創作者の実体験に基づいていて書きやすいという経済性で説明が付いたり、じぶんのことを書きたいという表現者一般の欲望で説明が付いたりするからだろう。嫌悪感から意味必然性を反語的に求めていたひとたちは当事者によるフィクションに対してもあくまでこれらを求めるかもしれないが、それはもう皮肉や悪意に近しいものであろうからここでは取り扱わない。
さて非当事者*5(いまの文脈ではシスヘテロのことだ)が LGBTQ+ を作中で扱うことの難しさについて話を戻そう。
非当事者が LGBTQ+ を扱うことの難しさは主に以下の 2 点だ。

  1. 偏見や無理解、知識のなさから逃れがたいこと
  2. 1. を免れていても、陳腐なクリシェに陥りがちなこと、それが当事者によい印象を与えないことが多いこと

まず 1. について。これは LGBTQ+ について事実と異なる認識を持つことに由来するものだ。「同性愛者は同性とみれば積極的に性的にアプローチしてくるようなタイプの人間だ」「LGBTQ+ は後天的になるものであって、治療可能な病気である」「LGBTQ+ は性的に乱れている」といったような事実に反する偏見、誤解、それらに基づく嫌悪感が作品に反映されていたとしたら、それは当事者に不快感を与える表現ということになるだろう*6
とはいえ 1. のような陥穽から(完全にではなくとも、かなりの程度)免れていたとしても、2. のような難しさがまだ待ち構えている。陥りがちな陳腐なクリシェは

  1. LGBTQ+ に理想的な価値を押し付けること
  2. LGBTQ+ に悲劇的な物語を押し付けること

に大別される。
わかりやすく説明しよう。3. の典型例は BL, GL 創作とその需要に典型的にみられる。同性愛関係は尊く美しく感情的な密度が濃い(激重感情とかいわれてるやつだ)ものとされがちだ。ヘテロがエキゾチックに神聖化した同性愛関係に、たとえそこで描かれる同性愛、同性愛者表象が偏見や無理解に基づくものでなかったとしても、たとえそこで描かれている同性愛関係がじっさいに尊く、美しく、感情的な密度が濃いものだったとしても、またかと思ってしまうのはあることだろう。ほかにも「いいオカマだけがオカマだと思うなよ」問題もあるだろう。フィクション中に出てくるオカマ*7はたいてい漢気があったり、人生相談の達人だったりする。
その逆が 4. だ。作品中に LGBTQ+ が出てきた。それはいい。だが、同性愛者はノンケの主人公に叶わぬ恋をして、悲劇的に、しかしこっそりと失恋し、ヘテロ同士のカップルが成立するのをけなげに応援する。あるいは、性感染症に感染して、苦しみながら死ぬ(Tragic AIDs Story)。あるいは、同性を好きになってしまうなんてじぶんはおかしいのではないかと、学生の主人公が葛藤する。あるいは、無理解な社会に絶望し、電車のプラットホームから身を投げる。アメリカでいうところの Bury Your Gays trope みたいなものはわが国のフィクションにもわりと広範に見受けられるように思える。
ではなぜひとは(とくにシスヘテロは)LGBTQ+ に悲劇的な要素を期待するのか?
前世紀であればその動機は秩序回復的なものであったかもしれない。同性愛という "誤った" 性的指向が物語上の緊張をもたらすものとして導入され、それが当該同性愛者の死や挫折によってカタルシスをもたらしたり、異性愛に回帰することで緩和されたりといったプロット上の技法として、ということだ。
現代でもこうしたプロットはよくあるが、現代の作家が真正面からこんな物語づくりをしていることはさすがにあんまりないだろう。現代の作家が LGBTQ+ に悲劇を担わせるのはたぶんほかの動機のほうが多い。
たとえば、悲劇がまさに書くに値するような対象であるということだ。アリストテレスにいわれるまでもなく、美しく書かれた悲劇は感動的だ。そして、現実の LGBTQ+ も苦悩や葛藤を抱えていて、悲劇的な状況にあったり、悲劇的な結末を迎える場合も多い(LGBTQ+ の自殺率はたしかにそうでない場合よりも高い)。であれば、その葛藤や苦悩、悲劇を美しく書くことは作家にとって目的たり得る。うまくいけばポリコレ加点も狙える。
しかし――それでも、飛び降り自殺を考える高校生がトランスジェンダーだった、という設定が明らかになったときにわたしが思ったのは、またかだった。
もうとっくに陳腐なクリシェなのだ。理想化された LGBTQ+ も、悲劇の演出装置としての LGBTQ+ も。
しかし、外形的にクリシェに該当するからといってすぐにその表現がダメになるということはない。探偵が真実を指摘することで不可逆に関係者間に不幸や不和をもたらしてしまうことへの葛藤みたいなのもとうぜんもうめちゃくちゃクリシェなわけだが、当の葛藤を腰を据えて描こうとしていれば、あるいは新しい観点から光を当てようとしていれば、それはそれで評価の対象となるわけだ。LGBTQ+ クリシェについても事情は同じで、おそらく作家はともすれば安易なクリシェとも捉えられかねない LGBTQ+ の悲劇を書くときは細心の注意を払うはずだ。読者もただの手癖や左派への目配りで LGBTQ+ を出してるだけじゃないだろうな、という目で見るはずだ。そういうわけで、ただ安易に出したわけじゃないですよ、しっかりテーマとして考え抜いて、表現として昇華した上で LGBTQ+ の悲劇を描いていますよ――と主張したいはずだ。あるいは、今回悲劇を担うのが LGBTQ+ になったのはステレオタイプやクリシェにのっとったものでなく、プロット上の要請から、たまたまそうなっただけですよ――と主張したいはずだ。
だから作家も読者も、意味だの理由だの必然性だの文脈だのを求めてしまうのだ。(とくにシスヘテロが)LGBTQ+ を描くことの難しさが意味だの(以下略)を要求してしまうというのは、こういうメカニズムによる(場合もある)ということだ。
しかし、それでも相変わらず「LGBTQ+ をフィクションに登場させるときはかならず意味だの理由だの必然性だの文脈が求められるのはおかしい」問題はまったく解決していない。おそらく青崎はこの問題を認識している。だから、敢えて彼女がトランスジェンダーであることを謎解きに絡めたり、プロット上の必然性を持たせたり、時代背景や社会情勢と併せて念入りに語ることをしなかったのだ。
ところで遅ればせながら強調しておきたいのは、わたしはべつにここで青崎がこの作品でトランスジェンダーの扱いにおいて深刻な不手際があったと指摘したいというわけではないということだ*8。自殺志願者にトランスジェンダーという属性が割り当てられたのは、安易な思い付きではなくて、時代背景やテーマを踏まえたものであったはずだ。しかし、それを保証するものとして意味だの(以下略)を詳細に書き込むのは、前述の「意味だの(以下略)~おかしい」問題からしてためらわれた、というようなところだろうと思っている。ただ、この解釈が合っているのかどうかはわからない。合っていたところで、このバランス感覚が表現として正解なのかどうかもわからない。
といっても万能の解決策はない。意味だの(以下略)が書き込まれていないとそれが陳腐な思い付きに基づくクリシェなのか、テーマを追求した結果のものなのか判断しがたい問題と、そうはいっても LGBTQ+ を登場させるのに意味だの(以下略)を求めるのはおかしい問題の間の対立は真正のものだからだ。この対立は、不可視化するな、しかし特別視するな――という現実世界でのダブルバインドを反映している。不可視化せず、特別視せず、ただ隣人として認識するという状況が成立しない限り、常に正解になるような表現というのはあり得ないのだろう。


以下は補論である。
ここまで書いていて真っ先に挙がるであろう反論、あるいは指摘は、「クリシェやステレオタイプは全体的な傾向の問題であって、個々の作品や作者がそんなものを意識してやる義理はない」というもの。
その通り! だからわたしは個々の作家に理想化された LGBTQ+ を作中に出すなともいわないし、LGBTQ+ をもっぱら悲劇的な要素を担うものとして扱うなともいわない。理由なく LGBTQ+ を作中に出せともいわないし、LGBTQ+ を作中に出すときは必然性を持たせろともいわない。
作家が目指すべきなのは(さっき脚注で等閑視するといった)美的価値であって、政治的な正しさや万人に快い表現ではない。対象読者がかなりはっきりと想定されているフィクションではわかりやすさのためにクリシェに頼るという戦略もあるだろう。おもにシスヘテロが書き、おもにシスヘテロが読むと思われる二次創作の BL や GL で、いちいち過度な理想化は当事者を鼻白ませるかもしれない……と考える必要は必ずしもないだろう(といっても、書き手によってシスヘテロ向きと想定されている BL や GL を読む当事者はおそらく想定よりもかなり多いものだが)。
わたしがいいたかったのはけっきょく(とくにシスヘテロが)LGBTQ+ を作中で扱うのは思ったより難しいし、難しいということを認識するのも難しいという常識的な指摘に過ぎない。難しいのであれば触れないという選択をするのもありだし、だれも不快にしないことは不可能であると割り切るのも自由だ。ただ、理想化されているわけでもなく、いたずらに悲劇的でもない等身大の LGBTQ+ の物語が増えれば、かえって理想化された、あるいは悲劇的な物語も(多様性のなかの単なる一変種として)違和感なく受け入れられるだろうという気はする。

思いつくふたつめの反論、あるいは指摘は、「あらゆる属性のなかでなぜ LGBTQ+ だけそんなに扱いが難しいのか? なぜそんなに配慮しなければならないのか?」というもの。
じつは扱いが難しいのは LGBTQ+ だけではない。

  1. その属性がその属性の所持者のアイデンティティを構成するものであって
  2. その属性の所持者がその属性に対する無理解や偏見によって現実に抑圧されてきた

という事情が成立すれば(とくに非当事者による)扱いは難しくなる。
白人が製作する西部劇ではネイティヴアメリカンが悪役として描かれてきたが、その反省で作られた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』だってツッコミどころだらけだ。日本人は文化盗用がなぜ問題視されるのか理解できない場合が多いが(そして、文化盗用として問題視されているもののすべてがほんとうに問題があるわけでもないが*9)、それは日本人が日本人であることが日本においては無標であり(=日常生活で意識させられることがなく)、アイデンティティを構成する主要な要素でないこと、日本人が日本人であることによって無理解や偏見にさらされることがあまりないという幸運な事情によるだろう。
理想化された、あるいは悲劇的なクリシェのなにが悪い(とあえていってしまうが)かといえば、それが事実に反するからではなく、属性を画一的に捉えているからだ。無理解や偏見は事実誤認によるものよりも、属性を画一的に捉えることによるもののほうが害が大きい。属性を持つ個体を個体として認識できないことに無理解や偏見は根ざしている。
理想化された百合関係、悲劇的なトランスジェンダーの物語、迫害されるスペイン系移民の物語、健気に努力して健常者に勇気を与える障害者、信仰と社会生活のあいだで引き裂かれる新宗教信者という類型を好む創作者や鑑賞者の個人的な性向自体はただちに批判できるものではない。それでも、ある属性とそれにまつわるイメージが画一的で、個のちがいに目を向けない態度に忌避感や嫌悪感を抱かれてしまうのは避けられないことでもある。

「噤ヶ森の硝子屋敷」
死体発見現場をみた瞬間に視線の密室への侵入トリックについてはわかったが、これはそもそも隠す気もないタイプのトリックだろう。ネタの本丸は脱出の方だろうが……予想外だけど無理があるだろ。どんなに透明度の高いガラスでもあるのとないのじゃぱっと見で違和感があるとどうしてもおもっちゃうし、カーテン全開にしても気にするやつは見にくるでしょ……。
あとはなんでこの犯人が密室を作りたかったのかがよくわからない。密室を作る動機って容疑者が限られる中で不可能状況を作ればトリックを解かれない限りじぶんが犯人だと指摘されないっていうメリットが大きなものだと思うけど
この犯人の場合べつにあのトリックで密室なんか作らなくても、例えば殺した後窓ガラスを内側に向かって割っておけば(というか、そうしたようにみえるように窓ガラスの破片を室内にバラまいておけば)馬淵にかんたんに罪を着せられるわけだ。
いや、馬淵が外を徘徊してたのは予想外の事象であって……といわれるかもしれないが、たとえばだれでもいいが自室に入ってから自室の窓から出て、被害者の窓を割って入って銃で撃った、というシナリオも成り立つわけで、ようするに真犯人には不可能状況を作る必要がない。

「前髪は空を向いている」
わたモテよんでないからよくわからなかった。

「your name」
知り合った直後ならともかく、一晩もあればいつでも登録の機会はあっただろう。

「飽くまで」
はぁ、というかんじ。当初は望んで手に入れた大切なものを飽きたら捨てることにひねくれた喜びを感じていた男が、なぜか最後にはべつに望んで抱えることになったわけでもない秘密を、しかも抱えているのに飽きたわけでもなく、飽きるかもしれないという予感を覚えただけで自首することになったというのがどうにもプロットが破綻しているように思える。

「クレープまでは終わらせない」
近未来 SF あるあるの文体模写みたいなのはおもしろい。存在しない SF アニメの存在しない日常回みたいだ。

「恋澤姉妹」
あんまりおもしろくない。百合要素を消費していることに自省的なのはわかったが自省的だったらなんだという話。「見てんじゃねーよ」というお話を書いて見せているというのはまぁアイロニーではあるかもしれない。恋澤姉妹がどういう関係性(きらいな言葉だ)なのかもよくわかんなくて、各々ごじぶんの考える激重感情(笑)を代入してかってに補完してくださいねというかんじ。除夜子の真の動機を探るホワイダニットものとして読めば面白い。

「11 文字の檻」
1 文字目を当てるとこまでは面白かったがそこから急に完答してええ……?というかんじ。あとこの施設の謎とかもぜんぶ藪のなかでびっくりした。
本質的には AI には文字と判定できない一文字目でエラーを出して人間の判定にうつし、人間の目にはまだ続きを書くように思える記号列を書くことで一文字目が正解かどうかを推測するという戦法なのだが、
現在の AI ならふつうに○付きの「あ」をただの「あ」として認識しそうだなと思った。マルチモーダル AI と化した ChatGPT ならふつうにあれを「あ」だと判定するだろう。人間と AI でできないことに差があることを利用したミステリだがおそらく未来であろう世界で人間にできて AI にできないことがあるとは思えない。とはいってもこれは技術がさいきん進歩してしまったせいで信ぴょう性が落ちたという事故みたいなもんなのだが……。

11/28

フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』(新潮文庫)

序盤のアリタレーション尽くしとかはもう……勘弁してくれ!というかんじだったけれども愛国リーグのホラ話はじまってからはおもしろかった。全方位をバカにしてると……楽しい!

11/28

秋三角『閉じた箱の中で』

SSF06 に行ってまいりました。同人誌の即売会に行くこと自体が数年ぶりでかなり恐怖を覚えました。行く前は事前チェックとかできなかったけど会場で見本誌とかみていっぱい買うぞ~とか思ってるのにじっさいに行ったら人が多すぎて怖くなってだれともしゃべらずに数冊買って逃げかえるみたいな、あたしっていつもこうだ……。
ところで本作は咲耶さんの小説で、鏡に映るじぶんと対話するというのが主要素。コンパクトミラー、紅茶の水面、車窓、水たまり、レッスン室のスタジオ用ミラーといろいろな鏡面が出てくるのが美しいし、やがて姿を消したはずの分身がさいごに出てくるのがあたし好み。シャニのコミュに真剣なひとたちはやっぱりモチーフの使い方が上手いですね。
19 年クリスマスのプレゼントって甘奈と被ったときのやつで、意地悪だな~と思いました。
再版あるいはデータ版を公開されるときは 9 ページ「上場」→「上々」、14 ページ「反らした」→「逸らした」、19 ページ「偽悪」は文脈からすると「露悪」、あたりを直されるとよいのではないでしょうか。

11/29

ゆずソフト『喫茶ステラと死神の蝶』

プレイ時間は 25 時間くらい。ゆずソフトははじめてやります。
さいしょいきなり死んでよみがえるのでえーなんかそういう SF てきなやつですか? とおもったけど蝶まわりの設定は現代うつをふんわり言い換えただけのご都合ファンタジー設定でそんなに主張してくることがなかったのでよかったです。じっさい共通ルートはほぼカフェ経営ものだし。
いっぱんに退屈とされがちなエロゲーの共通パートですが、主人公とヒロインの関係だけじゃなくてヒロイン同士が仲良かったりするのでわりと楽しんで読めました。お医者さんのくだりもわりと感動的だし。

以下は攻略順(愛衣→涼音→希→ナツメ→栞那)に。ネタバレ注意!
愛衣
褐色で……水着で……貧乳か……あたしの苦手ジャンルだな……→家ではメガネ派か……(手のひらを反す)。
ブラックペッパーの燻製っておいしいんですかね。
問題は解決しないが問題によって引き起こされる気鬱は解消できる能力があった場合に友人の気鬱だけを解消してあげたけどこれってドーピングみたいなものじゃないと思い悩んでやめるけどもとから変な力だからその事情を友人にも話せずすれ違うっていうけっこうまじめに真正のジレンマを描いていてよかったです。特殊能力があっても活かさないことが役に立つこともあるってことですね。

涼音
サブヒロインということもあって話と体型に起伏がないが、大学生がバイト先でやってそうな恋愛ってかんじでいいですね。いいのか?


かなりご都合主義展開が目立つがあんまりそういうのをごちゃごちゃいうゲームでもないだろう。希の家の神社の祭神の縁起に関するストーリーがメインなのだが、主人公がより古い伝承の方がより真実を伝えていると考えられるみたいな人文学の基本に忠実でよかったです(?)
親子の情みたいなのは素直に泣かせにきていてラストの CG はかなり感動的だ。

ナツメ
たぶんインターネットでいちばん人気なひと。毒舌キャラだとおもっていたらツン素直くらいのかんじだったのでやや肩透かしを食らったが、ちょっとだけ言葉足らずな語尾のくせとか CV の演技とかもあってこういうのも……いいねとなった。
いくら小さくても肉まん百円は不当廉売ではないか?

栞那
おそらくいちばん気合入ってるルート。消えてしまうところでこのゲームにもこんな重い展開が……! と思ったら中一日で復活してワロタ。キリストより速い。
栞那は消えてしまったけど笑って生きていくって約束したから、でも悲しくてたまらないみたいなくだりはめちゃくちゃ好きだったがすぐ終わってしまった。あんまり長くてもダレるしまぁいいか。復活も愛のパワーみたいなのでごまかされてよく理屈はわからなかったが、すぐ同棲状態になって萌え萌えで頭を上書きされたのでまぁ……重たい話はいいか!となった。
人外、敬語、下ネタ好き、でもじぶんの話になると弱い、テクノロジー音痴、個別ルート入ってとつぜんヌルっと登場するツインテール立ち絵と非常に好(ハオ)ポイントが多かった。Chapter 7-1 のコタツバンバン SD が可愛すぎる。一刻も早くわたしも妖怪乳しゃぶりになりたい。
主人公の両親のエピソードなんかもかなりよく、非常に満足度が高かった。

〈総評〉
どれも大きなツイストが与える驚きや、大きな苦難とそこからの解放によってもたらされるカタルシスといった要素に頼らず、等身大の悩みを抱えた善男善女がひととのつながりのなかで救われていくみたいな話で、ふだんのわたしならこういうのを退屈だ~とかいってるはずなんだけど、まったくそうはならなかった。制作者のかわいく作ったキャラを安心安全なストーリーで存分にかわいがってくださいねという矜持のようなものを感じたからだろうか。後期高齢者になるとこういう丁寧に作りこまれた安心安全なキャラゲーが身に染みるかんじがする。こうなってくるともう読む福祉だ。医療費控除が適用されるはずなので会社にレシートを提出したい。

*1:たぶん秋草先生の「世界は注釈でできている」だったと思う。

*2:JR 西の過失という意味では必然かもしれないが、すくなくともこの高校生にとっては偶然であったはずだ。

*3:これはわたしのかなり踏み込んだ解釈だが。

*4:もちろん、作中のあらゆる要素に必然性を求める創作・鑑賞哲学を持つ人間にとっては別だろうが。

*5:ところでよく考えればわたしは青崎がシスヘテロ男性であるかどうかを知らない。が、すくなくとも Twitter やなにやらの発言からそう認識していた。

*6:さしあたってここではそう評価しておくが、誤解に基づいた差別的な表現のために/があるにも関わらず美的な価値を持つこともあるだろう。美的な価値を持つことと誰かに不快感を与えるのは異なる軸の話であるというのはいちおう述べておく。ようするにこの記事は全体として美的価値についてはまったく等閑視している。ただし、そうしたからといって、美的価値と政治的な正しさ、美的な価値と快不快のあいだに、後者から前者への影響や関係をいっさい認めないということを意味するわけではない。

*7:フィクションに登場する "オカマ" は男性異性装者や MtF, 男性同性愛者、オートガイネフィリアなどがごっちゃにされた概念で、この語の指示対象がなんなのかは必ずしも定かではない。

*8:厳密にいえば、真相に気づいた植戸がわざわざそれを本人に対して指摘するというプロットに対しては、果たしてそれがよいことなのかどうか、とは思った。もちろん当時の通常人が持つ通常の価値観でアウティングなんて概念はないだろうし、植戸がああしたからといってかれがとくべつに無神経だったということにはならないだろうが。

*9:民族衣装を当該民族以外の人物が着ただけで問題視するようなのは過剰反応といわざるを得ないだろう