Akiapola'au

読んだ本のメモ ネタバレは自衛してください

2024/2

2/1

川田順造 編『新版 近親性交とそのタブー 文化人類学と自然人類学のあらたな地平』(藤原書店)

インセストはなぜいけないかといわれればだいたいのひとは子どもが障害を持ったり奇形・不妊の確率を高めるからという回答を真っ先に思いつくだろう。これを近交弱勢という。じっさいに近交弱勢はある*1、しかし、もし近親交配に繁殖上のデメリットしかないのであれば、近親交配を避けないような形質はさっさと淘汰されて消えてゆくはずである。しかし近親交配をする個体は多い。じっさいのところ近親交配にはそうでない場合に比べて早期に繁殖を開始できる(身近にいるから当たり前だ)、近交弱勢を考慮しても血が濃いだけより多くみずからの遺伝子を残すことには成功するといったメリットがある。そういうわけで、近親交配を必ずしも拒まない個体が集団のなかにある程度の割合で存在することは進化的な適応とみなせる可能性がある、というのが青木「「間違い」ではなく「適応」としての近親交配」。
ヒト以外の霊長類においては群れを出て配偶相手を探すこと(メイトアウト)と近親交配の回避は一義的には別の仕組みだと考えられ、前者が後者に結果的につながることはあっても、その結びつきは必然ではない*2。対して、ヒトではむしろ近親交配の回避(インセスト・タブー)が外婚制(メイトアウト)に結果していると考えられる。ヒトとヒト以外の霊長類の違いはなにか?
霊長類のなかでもゴリラはその生態学的条件や社会的条件に応じて、近親交配の回避がメイトアウトを促す例が見受けられる。初期のヒトの群れも、群れ同士の協力を促す自然環境などの諸条件が揃ったことで、近親交配の回避をメイトアウトと連携させ、群れの間に配偶者の交換を通じた協力関係を構築する圧力がかかったのではないか。レヴィ=ストロースの外婚の理論が追認される。(山極「インセスト回避がもたらす社会関係」 ) 正直山極論文でゴリラの群れで雌が群れを出ていく理由がどういうロジックになってるのか難しくてよくわかんなかったが、とりあえず自然人類学者ふたりの論文はいわんとすることはそれぞれ明確だ。
いっぽう文化人類学者の皆さんは……なにをいってるのかよくわからないことが多かった。
出口「インセストとしての婚姻」は族外・族内の論理がインセスト・タブーを生み出しているのではなく、インセスト・タブーが身内とよそ者を区別する差異を生み出している、この身内とよそ者の二項対立は固定的なものではなく、上にも下にも拡張できるという話。なので父方平行イトコ婚の事例はレヴィ=ストロースの躓きの石とはならないのである。また、一見族外婚にみえるような事例でも、コミュニケーションが可能な程度には同族である以上インセストといえる、そういう意味では「すべての婚姻はインセスト」なのである。ノルド語における異人性の四等級ですか?(ちがう)
内堀「インセストとその象徴」では母―息子間のインセストはすでに父母の世代で行われた交換の追認なんだから族外婚の論理では禁止されないはずなのに、ほかの種類のインセストに比べても強い忌避感、嫌悪感がみられるのに対し、イトコ婚、兄妹婚はそれに比べるとロマンティックなものともみられているのであって、おなじことば、概念で扱うのが妥当なのかどうか、と問題が提起されている。たしかに。後半の東南アジアの話はかんぜんに置いてけぼり。雷雨・洪水・石化→生き残った兄妹によるインセスト→繁栄・秩序という神話があるから、秩序にある状態で兄妹インセストをすると歴史をさかのぼって雷雨・洪水・石化という形で罰を受ける羽目になるというのは……うーん、話としては面白いが……。
小馬「「性と『人間』という論理の彼岸」はいちばん意味わからんかった。出口論文で上下に伸びた梯子をさらに上下に伸ばす。言ってる意味はわかるが、観念の操作にすぎないのでは……。

初知り情報が多くていろいろ面白かった一方、あたしが知りたかったことはなんなのかもわかってきた。

  • そもそもタブーってどういう現象なのか
  • タブーの一人称的側面(忌避)と三人称的側面(禁止)それぞれの実態、関係について(タブーは忌避されるから禁止されるのか? 禁止されるから忌避されるのか?)
  • 個人がタブーを形成する過程(本能? 教育? 学習?)
  • 近親交配を選択する、あるいは忌避しない個体はそうでない個体と相違があるのか
  • 近親交配関係にあるつがいはそうでない個体間の関係に比べて相違があるのか

2/2

sprite『蒼の彼方のフォーリズム Extra2』

真白 FD とは打って変わってずっと FC やっとる。ライターが違うからね。
本編では秋大会のチャンピオンとなったみさきがこんどはみんなからその立場を狙われるようになってなんかつらい!という話。みさきはどこからでも苦しみを見出してくるなぁ。
とはいえ、

他の人が無造作に次々とあたしの心を乱しに来るなんて想像してなかった。……どういう理由があって、みんなあたしにこんなことするわけ? あたし、こんなことされるようなことした?

直球のこの苦さはかなりウッとなってしまった(ここでは褒めことばです)。わたしもむかしは東方のスコアアタックをやっていたが、一位を取ったら次の日に別の人に抜かされたりして、こんな……見せつけるようにして……ッ!!!ときりきり舞いしたりした。べつに相手が悪いわけでも何でもないのはわかっているのだが。スコボ新着のリプレイみたときに更新余地ありそうだと思わず狙っちゃうよね~。
FC は戦術が固まりきってないゲームなので、個人対策を念入りにされると厳しいというのもこの苦悩を倍加している。はっきりいって技を後出ししたほうが勝ちのスポーツなのだ*3
スパダリの晶也くんがみさきには俺の憧れであってほしいんだと励まして、二人三脚で戦術を考えてくれるあたりはひねりがないだけに直球でいい話だ。ハクチョウソウのシーンめちゃくちゃいいんですよね。
ていうか FILMIC NOVEL ってなんやねんと思っていたが単位クリックあたりの CG 枚数がほんとにすごくて、なるほど人間はきれいな一枚絵を連発されると感動させられてしまうなと思った。やばないか? 花畑のなかで寝転んで作戦会議してるだけで美しいの……。七~八時間くらいのゲームにフルプライスはなぁと思わなくもなかったけど、これだけ演出にきちんと凝ってるならまぁしょうがないかあと思った、が、そうはいってもこの演出を維持したままテキスト量はもっと欲しいよな。オタクはワガママなんだ。
このゲーム唯一の欠点は真藤 vs 紫苑戦がいちばん熱くなっちゃってるところですね。えぇっ!? あのおなじみの BGM に声ついちゃうんですか!? ていうかここの窓果ちゃんの発言で泣かないやつおるんか?
まぁこいつら全員明日香がバランサーオフしたら手も足も出ないんですね笑みたいなことは若干思わなくもなかったけどなんかもう作品全体の歴史としてみさきルートが正史なんじゃないか? そうじゃないと FC という競技を今後も作品の根幹に据えることが不可能だろ。

2/4

ジョナサン・H・ターナー、アレクサンドラ・マリヤンスキー『インセスト 近親交配の回避とタブー』(明石書店)

明晰だ! かなりわかった気がする。霊長類学の成果をどんどん活かしていくべきだな。
本書が扱うのは

  1. インセスト・タブーはなぜ存在するのか
  2. 核家族間の組み合わせ(母―息子、父―娘、兄弟―姉妹)によってインセスト・タブーに強弱があるのはなぜか
  3. なぜ「母―息子」間のインセストはほかの組み合わせに比べて顕著に息子に精神的な悪影響を及ぼすのか

のみっつ。1. に対する本書の回答が 2., 3. もうまく説明するが、既存の諸理論は 2., 3. をうまく説明できない(あるいは問題を認識していない)ので著者らの理論が優れている、という組み立て。
まず、母―息子間のインセストはすべての霊長類において(というかほとんどすべての哺乳類で)強く回避されている。乱婚傾向の強いチンパンジーですら、メスの前に交尾の待機列を作るオスのなかに息子の姿は見られないという*4。つぎに、ウェスタ―マーク効果は初期の批判にもかかわらずやっぱり実在するらしいこと。ウェスタ―マーク効果というのは幼少期に親密な関係(いっしょに育てられたとか)にあって二者間は思春期*5を迎えても互いを性的な対象としてみなさない傾向にあるという効果のことだ。典型的には兄妹―姉妹間のインセストに対する抑制になると考えられる*6
このふたつの生物学的な抑止に加えて、類人猿にはいっぱんにメスが思春期に群れを出るという習性がある。これは父―娘間のインセストを妨げるのに役立つだろう。こうして類人猿は近親交配を回避していた。*7
ところで人類の祖先は他の霊長類に樹上生活のニッチを追われて草原に出る羽目になったらしい。外敵から身を守るため核家族化が進行する。核家族化は構成メンバーが少数であること、その紐帯を強化するために豊かで複雑な感情、とりわけ愛情を持つようになったことなど、近親交配回避にとっては逆風ともいえる変化だった。
ここで人類は新たな近親交配回避の性向を獲得するのに運頼りの突然変異を待つよりも、発達した感情の言語と規則を認知する能力によってインセスト・タブーを生み出した、というわけ。
自然が本能によって禁じているのならなぜタブーが必要なのか? → 社会構造の変化で既存の本能だけでは対応できなくなったからインセスト・タブーをいわば二階建ての規則として生み出した
ダイアドの組み合わせによって禁忌間、悪影響の度合いが違うのか? → 母―息子間のインセストは生物学的により強固な神経配線に基づく忌避感だからもっとも忌避感が強い。兄妹―姉妹間のそれはウェスターマーク効果の効き具合による。父―娘間のインセストに対する忌避感は文化的なタブーによるものだからほかのものよりも弱い。
めちゃくちゃ雑にまとめると上記のようになる。
同盟理論やその類似の理論を説く文化人類学者たちがインセスト・タブーによって人間集団間の協調を説いたのは部分的には正しかったが、協調の手段が女性の交換以外にもあり得ることなどをうまく説明できなかった。人間集団間の協調のためにインセスト・タブーによる外婚制が成立したのではなく、近親交配回避のために人類がミーム的に実装したインセスト・タブーは人間集団間の協調にも用いることができたということであろう。

2/4

浜本満「規範性の要件:近親交配回避からインセスト・タブーへ?」(九州大学大学院教育学研究紀要、2018,第 20 号(通巻第63集))

浜本先生(『信念の呪縛』のひとだ)もこのテーマについて書いていらっしゃる。いつもながらクリアな書き方で、めっぽう面白い。

  • インセストタブーは思ったほど普遍的でも重大でもない(その禁止の度合いは文化によって死刑を伴う激しさから軽蔑までグラデーションがある)。
  • 普遍的なのは近親交配回避の性向であって、その禁止ではない。
  • フロイト、レヴィ=ストロースらはインセスト・タブーによって新たな社会規範が生まれたことを強調する(あまりにインセスト・タブーを自然から文化への橋渡しとして神聖視しすぎる)が、マクレナン、スペンサー、ウェスタ―マークはすでにある慣行や自然の傾向性の表現としてインセスト・タブーを捉えている。
  • 規則性は規則や規範を生み出さない(毎日五分遅れるバスはバスは五分遅れるという規則に則っているわけではない)。
  • 普遍的な近親交配回避の成功から普遍的なインセスト・タブーの創出という理論そのものがこうして二重の意味で破綻している(タブーは普遍的ではないし、性向から規則は導けない)。
  • 回避性向は自らの行動を制限する原理だが、タブー(規則、規範)は他社の行動を制限する原理。
  • 人間のメタ認知能力が規則や規範の存在を可能にした。

というのが概要。浜本先生は毎回人類学の話がなんかいつの間にかけっこう突っ込んだ哲学の話になるのがおもろい。
ターナーの説明は類人猿の近親交配回避の性向とインセスト・タブーを相補的なものとして捉えているので、こうした陥穽には陥っていないといえるだろう。

ところでインセスト・タブーの本や論文を立て続けに読んで思ったのだがおれが興味あるのはタブーではなくてインセストだったのではないか? こんなことで実妹萌えを真に理解することはできるのだろうか。道のりはまだ半ばだ。回避できなかった(しなかった)インセストについての心理学的な研究か、あるいは実録秘話などを読むとよいのではないか。

2/5

Nemlei The Coffin of Andy and Leyley

ウォ~~~~インモラルだ。水道局かなんかのやらかしか陰謀でアパート単位で検疫隔離されて食料もろくにないまま放置されて両親にも見捨てられ餓死寸前の兄妹が、ひょんなことから悪魔召喚の儀式をしたら喚び出した悪魔に殺されてしまった隣人の肉を食べてしまい、それが警備員にバレそうになったから警備員を殺し、もうこうなったら逃げるしかあるまいてと逃避行をはじめる話。
ゲームシステム自体はまぁゆめにっきやら Ib やらを想像してもらえばよく、ようするにプレイそのものが面白い系ではない。ルート分岐もキャラの操作とかじゃなく*8選択肢で行う。セーブしてないのに選択肢に入ってしまうと、選択肢が出た画面ではセーブできない。ツクール MV じゃなくて吉里吉里 Z ならこんなことには……!(二敗)重要な選択肢では選択の前にセーブさせてもらえるけどね。
マップがあって行動できるタイプのゲームでは選択肢じゃなくて移動やインタラクトキーで意志を表示させてほしいんだよな。「右に行く」「左に行く」の選択肢から選ぶんじゃなくて、右に行くか左に行くかを選びたいのだ。アンディを信用するかどうかの選択も選択肢以外で実装できたと思うんだよな。

近親相姦(まだしてないが Love ルートみる限りいずれするとしか思えない)はやっぱり極限状況が似合うんだよな~~ウォード・ムーア*9の時代からそうと決まっておる。ていうか洪水型兄妹始祖神話も極限状況だ。
共犯、共依存、逃避行と、そのへんのオタクが作ったらしっとりとしてベタついたブラウニーになりそうな要素てんこもりなところ、調子はずれなユーモアとヤンデレがどうというよりそりゃもう人としてダメだろみたいなキャラクターのおかげでねっとりとしてそれでいてベタつかないブラウニーになっている。ブラウニーというか、タールだが。自己陶酔とか自己憐憫のキモさがほとんどなくて、兄妹どちらも自己中心的、視野狭窄、意志薄弱なのがよい。

そんで nicolith 氏による日本語翻訳がとてもすばらしい出来だ。"Andrew" を「お兄ちゃん」と訳したのは大正解。翻訳後記を読むとほかにもいろいろ工夫があるらしいことがわかる。
全四章中のまだ二章ということなのではやく続きを出してほしい。なんだか作者が脅迫されているとかなんとかできな臭いが、日本人からすると両親を殺してその肉を食って兄妹でヤッたくらいでなにをごちゃごちゃというかんじだ。キリスト教徒はもっと寛容になったほうがよい。

2/6

アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(早川書房)

べつのとこで数年前にブック・プラネット全部読む企画やるかとかいって放置してるけどそのときに買ったやつがあったから読んだ。
・マッキャンドレスが書いた伝記……A
・A に含まれるウェダバーンの手紙……A1 ・A に含まれるベラの手紙……A2 ・ヴィクトリアが書いた A の事実誤認を指摘する手紙……B
・登場人物としてのアラスター・グレイが A と B を発見した経緯とそれらに対する註……C
・(A, B, C を書いた自然人としてのアラスター・グレイ)
という五層のメタフィクション。青白い炎を初心者にもわかりやすくしたかんじ?
A のパートが長く、しかもあんまり面白くない(たぶんわざと面白くなく書いてる)のでダルくなってしまうが、B, C で二回驚きがあるのでまぁ楽しめる、が、冷静になってみるとこれっていわゆるただのどんでん返しであって、面白いけどだから何?といわれればだから何?というかんじでもある。マッキャンドレスもヴィクトリアもグレイも信用できひんよね~ウォ~のあとが思いつかないのだ。
いやまぁ A におけるベラはスコットランド、男たちはイングランドで……とかそういう与太ならいろいろあるだろうけど、それが面白いとも思えないし。なんかほんとにさいきんどんどんメタフィクションとか信頼できない語り手ってマジでどうでもいいな~ってきぶんになってしまう。じっさいメインに据える要素としてはオワコンだし……*10

失敬、上記の感想は我が家の飼い犬がしたためたものです。以下に飼い主が正しい感想を述べます。

手書き文字や著者自身による挿絵によって彩られた波乱万丈な性/政的冒険のなかに、博覧強記とヴィクトリア朝文学へのアリュージョンが無数に含まれており、とてもすべてを理解できたとはいえないが、熱のある語り口に耽溺した。フェミニズム的な題材の扱いにも光るものがある。かと思えばそれらをひっくり返す手紙と註で真相は藪の中。真実があいまいになっていく感覚は唯一無二のものであった。

さすが人間だ。人間の感想は一味違うな。
というのは冗談として――こういうメタフィクションをまじめに読むとしたら語り手ごとの証言の矛盾点を洗い出して、真実らしきものを部分的にでも再構成して、各語り手が内面化している価値観、隠したがっている傷や弱みを明らかにして、語り手たちがほかの登場人物をどうみなしているのか検討して……みたいな作業をするんだろうが、な~~んかぜんぜん興味もてね~んだよな。アラスターごめん。面白い読み方をしてる人がいたら手のひらを返すよ……。世の中の人はこれをどう面白がってるんだろうか。やっぱ結婚式中断させられてから将軍をやっつけるくだりで気持ちよくなってんのかな。スカッとスコットランドやね。
妻の過去が受け入れられず、無知で世界に搾取されていたけど強い知性で女性の性的自由を称揚したうちの妻! みたいなアホオスが考えそうな俗流フェミニズムストーリーにねじまげてしまったマッキャンドレスのヨワオスっぷりを相対化するベラを相対化するグレイ、みたいな……うーん、ぜんぜん面白くない。
どうでもいいけどベラの冒険はなんとなくデーブリーンの『ハムレット あるいはながき夜は終りて』の後半のアリス(主人公の母)のくだりに似てるなとか思った。デーブリーンのほうが面白いが……*11

2/12

ぱれっと『ましろ色シンフォニー Love is pure white Remake for FHD』

このころのつばす絵かわいすぎワロタ。そのほっそいほっそいお腰に両手の中手骨骨頭を当てて前かがみになっていらっしゃる瀬名愛理さんのポーズはなんらかの文化財に指定されてないとおかしい。
むかしはノベルゲームの解像度なんてどうでもいいだろほとんどの時間テキスト読んでんだしとおもっていたが、どう考えたって SD より HD, HD より FHD のほうがよい。なんかこう……リッチな気分になるじゃんよ。いやまぁでも PSP のちっちゃい画面で攻略した女にしか抱けない感情もあるんだろうな。
共通パートは統合のごたごたと愛理さんの貧乏ひとり暮らしがひょんなことからバレてしまうくだりが中心。たいしたヤマもなくぬるりと進んでいくが、キャラがかわいいからぼんやり読めてしまうな。OP の公園のシーンはなんだかよくわからないがこれからいい出会いがあっていいお話がはじまるんだろうな……という風格を感じさせる。一枚目の CG が愛理のアップで映されてカメラが引くところでは、背景とキャラクターの動きが連動しない。運動視差による奥行の表現だ。迷子の妹を探していたらふと視界に愛理が映って、目を奪われて、やがて後景も意識に捉えられるようになるという事態の映像的表現だ。なるほど臨場感がある。あたしはあんまりアニメとかみないからよくわからないが、調べてみるとマルチプレーンカメラとか密着マルチ?とかそういう技法らしい。 ADV でこういうのってやるんだ、というのでびっくり*12。Remake まえからこうだったのかな。→ 調べてみたらそうでした。すごいね。
立ち絵を角度や縮尺を変えて背景素材に混ぜて使うのも面白かった。蘭花さんに特徴的だが、立ち絵が椅子に座ったり、演台に立ったり。あとは愛理のお弁当をみんなで覗き込むシーンも各キャラの身長差が反映されてて声出た。丁寧だ……。
お弁当を覗き込んでいるところの CG あとなんか野良メイドとか謎の生き物とかはかなりゼロ年代ギャルゲーの残り香を感じました笑

愛理
さいしょよくキャラがつかめなかった。冒頭では仲良くしてくれてたのに学校入ったら急にツンケンするし……。と思っていたら徐々に明らかになる変化が嫌い・自らに課したルールは絶対・予想外の事態に弱い、という特性。ライターはべつだん愛理を ASD として書こうとしているわけではないだろうが*13、とはいえ、なんらかの特徴的な性格・傾向として表示はしているだろう。そして、それは新吾の病的な空気読みのように、由来や歴史があって、物語的に解決されるべき問題としてではなく、ただそういう性格だから、生まれつきそうだから、という扱いをされている。だから、愛理の性格が原因で物語に波風が立つことはあるけれども、新吾もシナリオもそれを矯正すべき問題としては捉えていない。愛理ルート全体にただよう優しい雰囲気はたぶんこういう基本設計のところから入念に考えられている。
仕事が忙しすぎてまじめすぎる愛理がすりつぶされかけるという共通のおさらいっぽい展開のルート序盤からいっしょにお風呂、母親との確執を経てお互いの気持ちに気づくまでの過程は信じられないくらい丁寧で王道だ。なんすか、来週さんて……。この女に萌え殺される!!!
「ああもうっ……来週さん、来週さん、早く来て、あいつに会わせてよ……」 ところで両想いになって真っ先にやることが両家への報告なところであっこれ保住圭だな!と察してしまいました。いやあんまり氏のテキストをいっぱい読んだわけでもないですけど、周囲からの公認・イチャラブ・愛する二人は無敵みたいなのはぜったいにゆるがせにしないですよねこのひと。
まぁしかしじぶんはいちばん統合に反対してたくせに彼氏ができたらウオー統合統合統合署名活動署名活動署名活動みたいなのがウザがられるというのはそんなん当たり前やろ……というかんじなのだが、クラスメイトがみんな根はいいやつでよかったね。ここでガチの統合反対派とか出してしまうと話がややこしくなるのでしょうがないとはいえ、ご都合主義ではあるよな。でもさ~署名活動ってやっぱり一種の暴力だからサ~……。まぁでも主人公たちに政治的にバランスの取れた公正さを求めるのもいみわからん話であって、初恋で盛り上がってなんかしたくなっちゃって署名活動しちゃった(だってこれ蘭華さんからしたら生徒から署名が集まったからといってなんなんだという話だ)みたいなのは初々しい話だ。さいごのまっさらな雪に踏み出していく CG は感動ものだ。

アンジェ
でかいケーキを作りました、完――。
奉仕をしなければならないという母の呪いを好きな人にはラブもしたいし奉仕もしたいという前向きな情動に変えていく話なのだが、そもそも奉仕したいみたいな気持ちがあんまりわからないし、奉仕されたいみたいな欲求もないので全体的によくわからなかった。新吾くんのほうもウォー奉仕されて~奉仕されるの最高~みたいなキャラになると共通での性格と矛盾してしまうしそもそも主人公としてちょっと共感できないゲスさになってしまうのであんまり奉仕されることに前向きでない。うーむ。ていうか告白後のほとんどの流れが壮大な前戯だけど、これ全年齢版ではどうなってるんすか……?
コミカルで悪意のない世界ではあったものの、愛理ルートのような優しさはあんまり感じなかった。
なんかドラマ CD でヘッドドレスのくだりとか母親のくだりは掘り下げられてるらしいので機会があったら聴いてみます。

みう
感動的なようでいていろいろ歪さもあるルートだ。
というのも――このルートは紗凪が主人公に恋をするようになるも、気づいてすらもらえずに失恋してしまうという話と、けっきょく紗凪はみう先輩に頼ってもらうことができなかったのに、新吾があとから現れてその穴を埋めていってしまうという話の、二重の喪失を描くものとしてまず現れる。紗凪はみう先輩に新吾を奪われ、新吾にみう先輩を奪われるのだ。かと思えば、みう先輩のエピソードとして、動物保護活動の抱える倫理的な諸問題だとか、保護した動物との別れなんかが描かれる。それぞれのエピソードの完成度は高いのに――全体としてなにがいいたいのかよくわからなくなってしまっている印象がある。これがわたしのいう歪さだ。
失恋ものを書くむずかしさは失恋するサブヒロインも魅力的に書きつつ、それでもメインヒロインのほうがやっぱり魅力的でないといけないところだ。サブヒロインもできれば攻略したかったな~でとどめておくのが大事なのであって、いやメインヒロインよりサブヒロインのほうがぜんぜんかわいいじゃん!となってしまったら本末転倒だ。わたしはいぶきちゃんのことめちゃくちゃ好きだが、そうはいってもめぞん一刻が響子さんじゃなくていぶきちゃんをメインヒロインに据える展開なんて想像することすらできない。
まぁしかし負けヒロインを作ってしまうとだいたい負けヒロインのほうがかわいくなってしまうのはしょうがないことでもあるよな。日本人、判官贔屓だし……。
ところでメインヒロインのほうがサブヒロインより優越してなければならんとかなんとか書いたのはヒロインにメインとサブの別があるというのを隠れた前提としている。メインヒロインとの物語を補強する、あるいは際立たせるものとしてサブヒロインの失恋物語が組み込まれているという読み方だ。そういう読み方をするとしたらみう先輩ルートはあまり筋のいいまとめ方をできたとはいえないだろう。
もしみう先輩ルートがそういう組み立て方ではなく、最初から群像劇として作られていたら、というのを考えてしまう。紗凪も主人公、新吾も主人公、みう先輩も主人公ということでそれぞれの視点からそれぞれの物語をやってしまったほうがいっそよかったのではないか。もうなんかそれ別のゲームになっちゃうじゃんというのはそうなのだが……。
さいごにぱんにゃがなんかしゃべりだしたのはまぁ感動的なんだろうけどオモシロが勝ってしまった。みう先輩と新吾が歩いてるのをママにゃといっしょにいるぱんにゃが見かける、ぱんにゃがママにゃに目線で語りかける、ママにゃが頷く、ぱんにゃが駆け出す――みたいなかんじで( CG の枚数は必要になるけど)画で表現するみたいな……そういうかんじでどうですか?(どうとは?)
とかなんとかいったけどそれを加味しても紗凪の失恋のエピソードが良すぎるからプラスマイナスでいうとプラス十万点なんだよな。愛理が……めちゃくちゃいい子なんすよね……。

桜乃
心の理論やメタ認知能力を試してくるようなシナリオだった。序盤はお兄ちゃんの様子がおかしい、桜乃の様子がおかしい、いま~~って考えてたでしょ、みたいなエスパーの応酬で物語が進行する。兄妹というお互いをわかりきっているはずの関係でわからないことが生まれるのが恋愛の萌芽だから、みたいなこともいえなくはないが、愛理も隼太もエスパー能力を発揮しまくるので、はっきりいってこれはライターの癖だろう。互いにエスパーしまくるのに最後まで言い切らないセリフ、発話された段階で読者に開示されている情報だけでは真意が理解できないセリフが多く、こちらの記憶力や想像力を試してくる。だれがなに考えててどう思ってるかみたいなのをその場でぜんぶ説明してくれる保住担当ルートのおかゆ具合*14からするとわりとたいへんだ。まぁでもヘンリー・ジェイムズとかフォークナーのほうが難しいから。
どうもそういう回りくどい書法と展開、義妹なのにタブーについての話が多すぎて素直にイチャつけないというのであんまり評判がよくないルートらしい。そんな……あたしはまさにこういうのが好きなのに*15!! いや単純にタブーを扱ってるから好きというより、タブーという題材でやれることを丁寧にやってるから好きなんですけど。
よくよく考えてみるとこのルートでは

  • 実の兄を(妹を)好きになってよいのか
  • 告白してよいのか
  • 交際してよいのか
  • 交際を続けてよいのか

の四段階が兄妹の視点から検討されるので、たしかにまどろっこしいと思う向きもあろう。ていうかまぁじっさいまどろっこしい。しかもどれも劇的な物語上の仕掛けがあって関係が先に進んでいくというかんじでもない。十分あり得る蹉跌が生じてはふたりがそれなりに悩んで、周りやお互いと相談して決意して進んでいく、みたいなのの繰り返しだ。
とはいってもこのルートって、恋愛はふたりだけでするものじゃなくて、周りからの(好意的でない)目線があったり、ぎゃくに助けてくれるひとがいたりと、社会的な活動であることを強調するもので、そのなかで生じる種々の障害を奇跡や運命に頼らずに解決していくのは(この二人の)恋愛の成就を幸運に帰さないという態度でもあって、やっぱりこれはこれで完成度が高いなあと思う。人に薦めたり二度読みたくなるようなタイプのよさではないことはそうだけど(とかいいつつ SANA EDITION までプレイしたあとすぐ桜乃ルート二周目をやってしまったのだが)、
ところで回りくどさについてはこのへんでともかくとして、義妹なのにタブーとかやっててめんどくさいという話について。
近親性愛タブーにもいろいろあるのであって、それはおおまかに

  1. 生物学的禁忌
  2. 当人同士の生理的忌避感
  3. 当人同士の道義的忌避感
  4. 周囲からの道義的批難

みたいな階層を成している。血のつながりがないからというだけでクリアできるのは 1. の生物学的禁忌だけだ。ウェスタ―マーク効果がどうやらあるらしいというのを前提にすれば、2. の生理的忌避感は血のつながりがなかったというだけではなくならない。幼少期をともに過ごせば、血のつながりがなくとも兄弟姉妹として認識され、性愛の対象としては認識しづらくなる傾向にあると考えられるからだ。とはいえ、桜乃ルートで 2. の水準のタブーが意識されているシーンはあまりない。新吾と桜乃の両親が再婚したのがいつかは作中からは明らかではないが、すくなくとも買い物に出て迷子になることができる程度には成長していたことを考えると、桜乃はせいぜい小学校低学年程度だったろうと推定できる。ウェスタ―マーク効果が強く働くのは三歳~六歳ころまでらしい*16ことからすると、再婚によってふたりが出会ったころにはすでにウェスタ―マーク効果が発揮されなかったのではないか。だからふたりのあいだで忌避感は漠然と文化的なルールとして認識されていても身体化はされていなかったのだろう。
ところでいま思いついたのだが、義妹ものは三種類に大別できる。

a) 幼児期からいっしょにいるタイプ。
b) 幼少期からいっしょにいるタイプ。
c) 思春期以降にいっしょになるタイプ。

a) においてはウェスタ―マーク効果が十分に働くことから実妹ものとほぼ変わらないが、生物学的禁忌が存在しないという点でのみ異なる。この違いを活かすため、このパターンにおいては当初実妹だと思っていたがどこかの段階でじつは義妹であったことが判明し、関係を持つにあたっての最大の障壁がなくなって……、という展開になることが多いだろう*17
b) においてはウェスタ―マーク効果は働かないか弱まるものの、幼少期からいっしょにいたためにお互いを家族としては認識しているという点が独特だ。このパターンでは、本能(体)としては家族とみなしていないから恋をしてしまうが、理性(頭)としては家族としてみなしている兄弟姉妹に恋をしてしまうことの葛藤(3. の道義的忌避感)が描かれることが多いだろう。
c) においてはお互いをそもそも家族としてみなしていない=はじめから異性としてみなしているわけだが、それでも家族をやっていくという点にむしろ焦点が当てられることになるだろう。ふつうの恋愛では家族が現実的なもので、恋愛がフィクション的なものになるのに対し、思春期以降に現れた兄弟姉妹というパターンでは、フィクションとしての家族関係を築きながら現実的な性欲がそれを脅かす、という転倒がある。ライトノベルに多いパターンな気がする。

さて桜乃ルートは変形型の b) のパターンだ。変形型とはどういうことか。b) パターンにおいては 1., 2. の禁忌、忌避感は回避されているのだが、桜乃ルートの序盤では「お兄ちゃんは、私が『自分が本当の妹だと思っている』って、信じている」のだ。ふたりの関係はじっさいには b) のパターンであるはずなのに、新吾は桜乃がじぶんたちの関係を実の兄妹だと思っていると思っているために、そして、桜乃は新吾がそう信じていると知っているために、どちらもじぶんたちの関係が義理のものであると事実としては知りながら、実の兄妹としてふるまわざるを得ないのだ。だから、ふたりのあいだにはじっさいには存在しないはずの血のつながりが、そして、それに由来する生理的忌避感があるという擬制が成立してしまっている。なんだかルイスの『コンヴェンション』みたいな話になってきたが、まずこの「瓜生家の兄妹は血がつながっている」というそれ自体は偽である共通知識が破られるところから話がはじまらないといけないわけだ。
だが、新吾は桜乃がじぶんのことを実の兄だと思っていると信じているから、桜乃のことを好きになることにブレーキをかけてしまう。新吾の目線からすれば事実を暴露することもできない。じぶんたちが義理の兄妹であるという事実を後出し(じっさいには桜乃はすでにこの事実を知っているわけだが、それを新吾は知らない)すれば、血のつながりがないことを隠して妹のことを女としてみていたことになってしまい、桜乃からの信頼を失ってしまうからだ。
いっぽう桜乃は新吾より一段メタな知識を持っている。じぶんたちに血のつながりがないことを新吾が知っていると桜乃は知っているわけだから、桜乃はじぶんが事実を知っていると新吾に伝えるだけでよい。事態を動かす権利は桜乃の側に握られている。しかし、そうかんたんにものごとは運ばない。義妹であることを認めれば関係を先に進めることができるかもしれないが、義妹であることを認めてしまったら、もし失敗したとしても兄妹には戻れないからだ*18
お互い事実を知っているけれど、相手が事実を知っていることを知っているかどうかというメタ知識に差があるという設定を入れることでこれだけ話をややこし……面白くできるのはすごい。
けっきょく血のつながりがないことを桜乃が知っているということは偶然で新吾にも知られてしまうわけだが、これでやっと生物学的禁忌と生理的忌避感がお互いに存在しないことがお互いに知れた、というだけであって、まだまだ遠回りは続く。新吾は桜乃に告白されそうになると話をはぐらかし、かと思えば桜乃は新吾に告白されると、父親からのタイミングの悪い電話のこともあって断ってしまう。このへんが兄妹間の恋愛の道義的な問題について扱っているパートといえるだろう。どうでもいいけど桜乃に思いのほか強く拒絶されるとこのシーンめちゃくちゃ好きなんですよね。これはイケるやろ……と思ってたらがっつり目にフラれるの……よくない?
さて紗凪のファインプレー(?)もあってけっきょく付き合うことになっても、周囲がすぐにそれを認めてくれるわけではない。周囲からの道義的批難は実妹だろうと義妹だろうと避けられないのだ。
じっさい、作中のクラスメイト達は桜乃が義妹であることをほとんど知らない(流れている噂からすると真実が漏れ伝わっている可能性はある)が、義妹だったとしても批難が弱まったとは考えられない。なぜか? 兄妹間の恋愛が生物学的に問題があったり、倫理的に問題があったりするから(だけ)ではない。端的にいってズルいからだ。
だって、恋のライバルが好きなひととおなじ家に住んでいて、何年も一緒に暮らしていたとしたら、そんなの勝ち目がない、、、、、、からだ。
ふつう好きなひとの兄弟姉妹を恋敵としてカウントはしないものだ。それはインセスト・タブーの存在によって自動的に除外していいはずの恋敵なのに、そのルールを堂々と無視しているやつらがいたとしたら?
というわけで瓜生兄弟を批判するのは、かれらに片恋をしていた連中だ。不愉快なモブ、といってしまえばそれまでだが、かれらのやりきれなさ、戦う前に負けが決まっていた悔しさは容易に想像できる。
ここで瓜生兄弟が選んだ手段が説得して理解を求めることじゃなかったのがいい。かれらは身をひそめることを選んだのだ。たとえば(愛理ルートでそうだったように)ふたりで立ち上がってみんなに真剣な関係であることを認めさせる、みたいにしたとしたら、読んでる方の胸はスカッとしたかもしれないが、べつにわれわれはスカッとするために物語を読んでいるわけでもない。けっきょく先生がビシッと微温湯的なことをいって噂は鎮めめられる。万智が戒めたのは曖昧な風評で悪意のある噂を流すという行為であって、嫉妬することそのものではない。不愉快なモブたちの行為は外形として間違っていたかもしれないが、その動機までもがすべて歪んでいるわけではないのだから、このくらいの落としどころでお目こぼしを狙うというのが現実的には妥当な線だろう。さきにも書いたように、恋愛はふたりだけでするものじゃないのだ。
はったりで覚悟を試してくる父親みたいなくだりだけはなんやねんこいつ……と思ったが、いますぐ理解することはできないけど受け入れられるように努力するみたいなアメリカの同性愛カミングアウト番組とかにありがちなリアルさを追求されてももうストーリー終盤だしなみたいなのでさいしょから認めるパパになったんだろう。でも俺は血がつながっていない息子に実の娘を取られたパパがすぐには納得できないけどなんとか信用しようとするみたいなめんどくさいくだりがあってもよかったと思うけどね。めんどくさい話が……好きだから……。

みたいなどうでもいい話はさておき、桜乃ちゃんがほんとうにかわいい。この顔でこの髪型の妹、常人なら背低めに設定しちゃうところを背高めでしかもそれを気にしてるって設定にするの……天才です。ノーベル妹賞――。ぼやっとしてるけどお兄ちゃんのことにはよく気が付いて、むかし喘息だった新吾を気遣って喫煙席のあるレストランから連れ出してくれるとか、足音を消して歩く神出鬼没なところがあるっていうのもじつは幼少期に喘息で寝込んでいた兄を起こさないようにしてたらそうなっちゃっていたとか、そういうのだけでおれはもう泣いちゃうんですよね。
ぱれっとのゲームはなんか立ち絵の後ろ姿差分があるのが特徴的だな、とおもったけど、桜乃は(ほかの子に比べても)この後ろ姿の立ち絵が使われることがとくに多いんですよね。なぜなら、新吾のそばに立ってほかのキャラと会話していることが多いから! 立ち絵に後ろ姿があるおかげで、出会うものとしての女の子じゃなくて最初からそばにいるものとしての妹を演出できるの賢すぎる……。
なんか桜乃ちゃんがあまりに好きすぎて、さいきん狂ったようにパソコン用恋愛アドベンチャーゲームをやっていたのがしばらくは休み休みでいいかな……という気分になってしまった。これが……萌えという感情……?

2/12

ぱれっと『ましろ色シンフォニー SANA EDITION』

現代つばす絵もかわいすぎワロタ。まぁ絵柄が違うとワ! なんかここだけ絵柄が違う! となってしまうが、どっちの絵柄もかわいいからまぁ……いいか!
ストーリー自体はなんかムカつくガキ出てきたと思ったらぱんにゃ拉致監禁されてワロタからの人工甘味料の大洪水でけっこう粗削りだなという印象だけど、みう先輩ルートでおそらく大量発生したであろう紗凪かわいそすぎる泣報われてほしい泣のオタクを慰撫するために作られたルートなのは最初から明らかなんだからこれでいいのかもしれんな。負けブランコはやがて勝ちブランコに変わるであろう――。
でも桜乃にこんなこといわせるのだけは許せないよ……。 桜乃「……そういうの、好き」「人には言えない秘密の関係」 新吾「でもやっぱり、みんなに話して祝福してもらえる関係が一番だと思うよ」桜乃「……」「そうだね」「そういう関係が、いちばん」 桜乃がかわいそうだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2/13

マルセル・プルースト『失われた時を求めて 1 スワン家のほうへⅠ』(岩波文庫)

なんか……思ってたよりも読みやすい! 翻訳がいいんだろうな。フランス語との対応がどう……みたいなのはわかんないけど(フランス語がわからないので)、ちゃんと日本語の文章としてすらすら読めるから……。翻訳の良しあしには複数の次元があるのであって、日本語として読みづらかったとしてそれがただちに欠点になるわけではないが*19、読みやすくて読者が困ることはない。
寝る前にママにもう一回おやすみをいいたいって気持ちだけでこのページ数を読ませるのはやっぱり超技術だ。地雷が多すぎる病弱なレオニ叔母と女中のフランソワーズの水面下のバトルと絆、派手なことは一つもないのに面白すぎる。
ところでなんか美術に対する言及の元ネタを訳注がいろいろ明らかにしてくれているが、プルーストはラスキン好きすぎじゃないか?

2/16

アリ・アスター『ボーはおそれている』

世紀末タウン編、お医者さんのおうち編、ヒッピー編、VS ママ編の四部構成のうち、前半のふたつは面白かった。ボー虐の限りを尽くす前半のあれやこれやが不安障害? とか統合失調症? とかなんらかの精神状態の病を反映していて、じっさいに起きていることはもうちょっとちがうんだけどボーにはこう世界がみえている、ということの描写だと思っていたので、あれらの描写そのものが怖いというよりはこういうふうに世界がみえているひと(精神病患者)が現実にもいるんだよな、しかもそのかれらにとっての現実は、われわれがこの映画を見ている三時間みたいな短い時間では終わらないんだよな……みたいな想像で怖くなってしまった。
それがなんですか、後半に向けてお行儀よく話をまとめちゃって……けっきょく大富豪ママの壮大な試し行動で、鍵が盗まれるのも水が止まるのも帰還兵もぜーんぶ仕込みでしたってそれ面白いと思ってるんすか? もろもろの伏線を答え合わせ年表でざっくり回収してくるのも、アホみたいな裁判シーンも興ざめだ。令和にもなってトゥルーマンショーやんの禁止!!!!

2/18

ロバート・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫)

翻訳が……ちょっとまずい。日本語として読みづらいし、訳語の選択もいわゆる哲学でよくみるものとびみょうにずれてたりする。
創作論が面白かったです。

2/18

小川一水『天冥の標 Ⅰメニー・メニー・シープ 上』(ハヤカワ文庫 JA)

ずっとまえに天冥は六巻の途中くらいまで読んだんだけど、なんかしらんうちに完結してた。合本版の電子書籍を買ったのでまいにち風呂場でちょっとづつ読んでます。風呂場はさすがに集中力を邪魔するようなものがないのでいいですね。
読み返してみるとまったくストーリーを覚えていないことにびっくりする。事故で技術が失われた植民惑星は不穏な空気に包まれていて……。おもってたよりゆっくりな導入の巻だった。

2/19

田島正樹『読む哲学事典』(講談社学術文庫)

なんかノージックに続いて哲学者の哲学的エッセイになってしまった。様相とか反実仮想についてもっと読みたいけどな~。

2/24

ツカサ『お兄様は、怪物を愛せる探偵ですか? 2』(ガガガ文庫)

さいきん流行ってるんだか流行ってないんだかよくわかんないミステリ風の味付けのあるラノベかと思ったらどちらかというとラノベ要素もあるサスペンスみたいなかんじで、ツカサ先生ってそういう作風だったんですか*20? というかんじの一巻に引き続き、二巻もわりとまじめに館でループでミステリやってました。しょうじきあたし的にはもうちょっと義妹ちゃんとイチャついててほしいんですけど……。虚構推理に勝つにはお兄様呼び一本では頼りないぞ! うおおそろそろ水着回で一発逆転や。
ループするってもう帯に書いちゃってるし主人公たち以外全員死ぬくらいでしか驚けないな~と思ったらほんとに全員死んでびっくりしました。夕緋も行動不能にさせられてたけどお兄ちゃんがいる部屋だけは守り切ったっていうのかなり感動的だと思うけどさらっと流されてて禁欲的すぎる!!と思った。お兄ちゃんはあとでアイスとか奢ってあげたり足揉んであげたりしたほうがいいよ。あとは二十五年前神隠しにあった少女がまったく同じ姿で現れて……っていう謎がてっきりループの仕組みとかと関係した時間もの SF っぽいトリックで解決されるのかと思ったらぜんぜんそうではない現実的な解決法だったのは上手いと思った。ループものって先入観なかったらこんなん自明だもんね。
全員死んでるところからどれが自殺でどれが他殺で、そもそもこの館ではなにが起こってたのか……みたいな推理がはじまるのは独特な興味で面白かったです。でもそろそろ主人公とか夕緋ちゃんの話を進めてくれないとなんか事件が主人公みたいになっちゃうな。
二巻の表紙はこんかいメインのロリなわけだが、一巻のメインのひとも二巻ではさいしょにちょっと出てきたきりでようするに夕緋ちゃん以外のヒロインは単巻で使い捨てなんだから*21、毎巻夕緋ちゃんが表紙でいいじゃんね。かわいいし、夕緋ちゃん……。

2/25

マルセル・プルースト『失われた時を求めて 2 スワン家の方へⅡ』(岩波文庫)

プルーストの恋愛観は属性があって好意が生まれるのではなく、好意がまずあって諸属性に好意的な特徴がつけられていくと転倒させたところに独自性があるらしいが、べつにそのへんは新しくないのでは……(スワンの恋はこうみえて「私」の一人称小説だからスワンとオデットの両方をわかりやすく批評的な目でみているが、そうでない伝統的な恋愛小説は当事者の視点から書かれてるから表向きフィクションとしての恋心を本気で信奉しているようにみえるだけで、どっちも起こってることはおなじだろうし、書いてる側もそう思ってるだろう。すべての恋愛小説は信頼できない語り手だ。)。
というのはともかく「スワンの恋」はめっぽうおもしろい。頭が悪ければ身持ちも悪い女を美化してガチ恋してたけど仲いいうちはともかく愛想尽かされるにしたがって欠点も見えてきて、仲良くしてたころにもじつはほかの男がいたみたいな話を聞かされる経験、フランス人男性八割の実体験なんだろうな。最終盤の NTR 報告パート、こんなんもう DLSite で売れるぜ。

2/25

小川一水『天冥の標 Ⅰメニー・メニー・シープ 下』(ハヤカワ文庫 JA)

領主のやってる電力制限はじつは怪物を押しとどめておくためで、シェパード号を動かすとかなんとかは方便だったのだという話。なんかさいしょ読んだときはあんま考えなかったけど、そんなヤバいことになるならもうちょっと領主側もどうにかすべきだっただろ。反乱側のトップにだけは真実を教えるとかさあ。「こんなこといってだれが信じてくれる?」万能説というか……。ちょっとイディオットプロットにみえてしまった。

2/26

ルーシー・ウッド『潜水鐘に乗って』(東京創元社)

あーまたこれ系ねとなってしまった。われわれの世界と地続きの日常世界にひとつだけ不思議な要素が当たり前のように存在していて、その不思議な要素を使ってわれわれが持ってる悩みや不安みたいなのを浮き彫りにしてみたいなやつ……。もう英語圏の短編作家ぜんいんこれなんじゃないのか*22? それともそんなんばっか訳されるだけ? ていうかおれがそんなんばっか読んでるだけ*23……? さいしょは好きだったけどさすがに飽きてきたぜ。現代おとぎ話系短篇作家の群れに窒息死させられる!
個別の短編について感想を書こうと思ったけどなんかどういう話だったのかすらよくわかんなかったのも多くて諦めた。つまんなかったもんはしょうがない。アイディアの奇妙さだけで売るにはコーンウォールの伝承をもとにしてるせいかどうかわからないがそんなに不思議でも奇妙でもない存在者しか出てこないし、ストーリーはほぼ存在しないしで読み方がよくわからない。家を空けたままにしておくとだれかが入ってきて冷蔵庫と冷凍庫のコンセントを抜くとか隙間風の入ってくる窓とかおなじような表現がちがう短篇に何回か出てきてそういうオブセッションなのかたんなる地の文の使い回しなのかよくわからなかった。

2/27

渡辺一樹『バーナード・ウィリアムズの哲学 反道徳の倫理学』(青土社)

すご~~く読みやすい。ウィリアムズって英語が難しいってよくいわれてるけど、翻訳でもなお難しいのでうぐぐでしゅ……となってしまいがちだった。ありがたい御本だ。
著書全体の主張としてはウィリアムズの哲学は反道徳の倫理学であったというものでサブタイトル通り。どういう意味かというと、ルールブック方式の外在的な《道徳》は、ウィリアムズによれば実践に反するうえに自己矛盾した概念だということになる。あらゆる状況に対して一意に行為の指針を与える義務論や功利主義理論があるとは考え難いし、倫理の一人称的な側面を捉えそこなっているのは確かだろう。ウィリアムズは道徳理論は確立できる、確立してしまえばあとはそれを適用するだけだ、と信じ切っている道徳理論のオプティミズムには屈しないし、かといって倫理など存在しないといったニヒリズムや相対主義に落着することも回避している。ウィリアムズはニーチェにならって道徳理論の独断も現状追認の誘惑も振り切ろうとしているのである。うんぬん。

一章はウィリアムズの生涯と初期論文の紹介。
W の哲学的デビューは人格の同一性に関するものだった。ロック主義的な同一性の記憶説は質的な同一性を数的な同一性と混同しているから、SF っぽい思考実験で容易に破綻させられてしまう*24。ウィリアムズが代わって提出するのはわれわれの身体への気遣いに基づく人格の同一性の身体説だ。ここでもすでに一人称的な視点から問題を眺めようとするウィリアムズらしさが出ているという。このあと身体説も疑わしいしそもそも人格の同一性じたいが疑似問題だぜみたいなパーフィットが出てくるのはご存じの通り。
その他ウィリアムズの初期の倫理学論文の紹介が続く。メタ倫理学を批判したり、アモラリストをいかに説得するかではなくアモラリストがいるとしたらかれの欲求の体系はどうなっているのか考えたり。ウィリアムズは倫理的な問題にかかわっているときのわれわれの主観的な体験(真摯さとか葛藤とか)に積極的にスポットライトを当てていく。ミルもそうだけど不倫してると倫理学に深みが出るな(?)。でもパーフィットも不倫してただろ! ていうかこの時代みんな不倫してるんだから*25みんな深みがないとおかしくなっちゃうか。撤回します。

二章は倫理学理論の批判。
ウィリアムズは功利主義が大嫌い。(快楽主義的な)功利主義者によれば、功利主義は超越的なものを持ち出さないし、倫理の目標を快楽に縮減してその実現方法は問わないから(地域や時代による)道徳の多数性を説明できるし、倫理的な問題を快楽の最大化問題に置換することができるし、複数の道徳的価値を快楽という共通の尺度で測ることができるというメリットがある。ぎゃくにいえば、これらのメリットのうちいくつかがじっさいには成り立っていないことを示せば功利主義を支持する根拠を弱めることができる。ウィリアムズは功利主義は自己破壊的だという。
というのも、人間が追求する価値には計量可能な快楽とは異なる性質の価値もあるというのがひとつ。ふたつには、功利主義を追及するとかえって全体の功利を損なうよう事例がありそうだというのが挙げられる。ふつうこうした事態を避けるために規則功利主義なんかが持ち出されるが、規則にのみ功利主義的計算を適用し、実践ではそれを等閑視するというのはどことなく不自然だ。ヘア先生……。
ウィリアムズによればもうひとつの主要な規範倫理学理論であるカント主義も物足りない。功利主義的な行為者が個人としての表情を失って単なる調整者になってしまうのに対し、カント主義者はまだ個人としての面目を保っているが、それでも普遍的立法の原則とかいう one thought too many を持っている。
総じて帰結主義者連中は調整者か立法者に人間を押し込めてしまって、人間の生の実態をまじめに捉える気がなくてけしからんちゅう話ですな。

三章は道徳批判。
みんな大好きモラルラック。ネーゲルの「道徳における運の問題」に出てくる事例のわかりやすさにくらべるとウィリアムズの「道徳的な運」はなんでゴーギャンとか出してくるねんわかりづらい~というかんじなのだが、そもそもウィリアムズはゴーギャンの事例を扱えない(というか、ゴーギャンを単純に道徳的に間違っていたと判断する)ような狭すぎる道徳理論の物足りなさを指摘しているのだった。
人生の選択において「事前の熟慮」などというものが常に可能であるとは限らない。選択の前後で価値観の変容が伴うような選択の場合、「事前」に人生「全体」について熟慮することはできない(今夜ヴァンパイアになる前に!)!
みんな大好き自由意志問題についても他行為可能性に基づく帰責と批難という実践は破綻しているとする。行為時にはほかの行為をする可能性がなかったとしても、のちに(愛する人や尊敬する人から批難されることで)遡及的に批難されるような行為をしないような人でありたかったという後悔が形作られる。批難とはそういう実践なのではないか、というわけだ。べしはできるを含意しないというか、べきだったはそうすることもできたを含意しないというかんじでしょうか。
あとは理由の内在主義の話。
ウィリアムズの描く倫理の世界はだれもが過ちを(運の悪さによっても)犯しうるし、そのことを後悔し、他者から説得され、過ちを犯さない理由を獲得することができるという点で、現実に沿った内容になっている。いっぽうで既存の道徳システムが与えてくれる「事前の意志が正しければあとで責任を負わされることはない」「悪を成した人間が悪いのであって、悪を成した人間の運が悪いのではない」という安心感や分かりやすさはない。ウィリアムズの世界の見方は現実の道徳的実践をうまく描写しているが、素朴な法実践が下敷きにしている道徳的フィクションは骨抜きにしてしまうよな*26。しかし、じぶんにはどうすることもできなかったことで責められるという観念(を理論的に受け入れること)にはどうしてこうも抵抗感があるんだろう。じっさい世の中じぶんにはどうすることもできなかったことで責められることばかりなのにね。

四章は政治的リアリズムについて。ここでのリアリズムは政治的モラリズムに対するもので、ロールズもサンデルも道徳的な概念を政治に持ち込むけど、じっさいの政治で敗者が道徳的な悪であったりするわけじゃないように、政治はどっからどうみても道徳の問題ではない。あとは系譜学の話。なんかあんまり政治学に興味がなくて……すみません。

ウィリアムズに物足りなさを覚えるとしたらじゃあけっきょくおれたちはどうすればいいんだよということになるだろう。ウィリアムズは既存の規範倫理学が陥っている単純化の陥穽は見抜いたが、かといってそれを取り去った後そこになにか代わりの指針を置いたわけではない(というか、置くべきではないと思っていた)。人間はどうしようもないことやどうなるかわからないことに判断を求められて、じぶんの人生を賭けた選択をしたりそれでも後悔したり批難されて反省したりしながら人生をやっていってるんだよフフンというお話をしたところで、よしわかった、ところできみはポルノを禁止すべきだと思うかね?とか訊かれたら*27なんらかの首尾一貫した理論的な回答を求められるだろう。じっさいウィリアムズも内務省の委員会で委員長やってるときにわいせつ物の規制や検閲について報告を出さなきゃならんとなったときにはミル的な功利主義に沿った報告を作った*28そうである*29。ウィリアムズレポートがほんとうに功利主義的な響きを持っているかは読んでないからわからないのだがもし仮にそうだったとして、ウィリアムズからしたらいやどんなときでも機械的に功利主義を適用しようとするとおかしくなるというだけで普遍/不偏であるような判断をしたいときに功利主義を使うこともあり得るでしょという話なのかもしれないが、功利主義者からしたらまさにどんなときでも適用できるからこそ功利主義は魅力的で説明力があるのであって、場当たり的に用いられる功利主義的説明はただのレトリックにすぎなくなってしまうだろう。人間には未来向きの道徳的判断を求められることがあって、しかもそれが多くの人の利害に関係したりすると、外在主義的な首尾一貫した理論に頼りたくなる性向があるというのはやっぱり否定できない話であって、いやぁそれはわれわれの感覚がおかしいのであって改訂すべきだよという話なのか、ケースバイケースでインテグリティやら外在主義的な理論を使い分けようという話なのか*30、このへんについてウィリアムズが、あるいはウィリアムズ主義者はどう考えているのか、そういうのが興味ありというかんじです。まぁこのへんは徳倫理学に対するありがちな要求と似たようなかんじだなという気もするんだけれども。

*1:むかしはないといわれてたんだからびっくりだ。

*2:例えば群れのサイズが比較的大きい、餌付けされたニホンザルの群れでは近親交配を回避してもまだ交配可能な異性がいるため、メイトアウトが発生しない。

*3:高校生に新技をバンバン開発されてしまうのはプロたちはなにやっとるんという話だが。

*4:待機列って概念的な列かと思ったらほんとに列をなしてるってこと!?

*5:性成熟

*6:父親が娘の子育てに関与する場合であれば、娘→父親に対する忌避は成立するかもしれないが、父親はとっくに幼少期を過ぎている(あたりまえだ)ので父親→娘間の忌避はウェスタ―マーク効果によっては成立しない。

*7:じゃあヒト上科以外の霊長類はどうやって父―娘間のインセストを回避してるんだよというのはまたちょっとややこしくなるので割愛。ニホンザルみたいに回避しきれていない場合もある。

*8:いちおう暗殺者勝利エンドはキャラの操作で分岐する ED か。

*9:ロト」。傑作だ。

*10:ほかのやりたいことや表現したいことがあって道具的にメタフィクショナルな技法や信頼できない語り手を使うならまだしもメタフィクションであることや信頼できない語り手であるだけで評価してもらえる時代は終わったよねという意味です。哀れなるものたちが単なる目的として技法を使っているかどうかはよくわかりません。

*11:デーブリーンはデーブリーンで前半の百物語パートがダルすぎて作品全体の面白さとしてはグレイとどっこいどっこいだけれども。

*12:いやあたしが知らないだけでほかにもやってるところがあるかもしれないが。

*13:たとえば愛理がぱんにゃを苦手としているという設定。ASD であれば典型的には人間は苦手(裏表があるから)だが、動物は好き(そうではないから)とされているが、愛理はそうではない。愛理がぱんにゃを苦手とするのは、動物は「予測がつかない」からだ。

*14:褒めている。読者に難しいこと考えさせずに面白がらせるのって至難の業だ。

*15:しかし同性愛を扱ったフィクションに対して「タブーに苦しむのがまさに好きなのに」とかいったら問題視されるであろうことはわかるのに、近親相姦ならいいのか?とかは考えてしまう。

*16:諸説ある

*17:この展開にはアンチも多い気もするが。生物学的禁忌が解消されるだけですべての問題に片が付いたことにして、相変わらず残っているはずの生理的忌避感や道義的忌避感について触れなかったとしたら、たしかに唐突な印象を与えられてしまうだろう。

*18:9 そらいろ(というか新章の天アフター)は、実妹ものだったために「恋人になってしまえば別れる可能性があるが、妹(ここでは実妹のこと)という関係はなにがあっても変えることができないから、妹のままがいい」というふうにひねっていて、これって桜乃ルートに対する対旋律だったんだな……深い……とあとから思った。

*19:原義への忠実さ、原文の構造を保存すること、解釈の深さ、日本語としての読みやすさなどなどいろいろな目標があって、しかもかならずしもそれらは同時に達成できるものではないため

*20:ほかにはノノノ・ワールドエンドしか読んだことないです。すいません。ファフニールのアニメは観ました。

*21:あたしは話にかかわってくるヒロインが巻を追うごとに広義単調増加するラノベそんなに好きじゃないからこれでいいけど。

*22:エイミー・ベンダー、カレン・ラッセル、ケリー・リンク、ジュディ・バドニッツ、キャロル・エムシュウィラー、ローレン・グロフ、ダイアン・クック、ジュリア・スラヴィン、レイ・ヴクサヴィッチ、キジ・ジョンスン、マシュー・ベイカー、マヌエル・ゴンザレス、ジョージ・ソーンダーズ、トマス・ピアース、でもなんかエヴンソンとかミルハウザーはこの枠ではない気がする、まぁでもなんかこういうひとたちのことです! わかるでしょ?

*23:そうかも……。ちなみに前の註で挙げた作家は前から順に苦手、初期作は傑作、好き、苦手、天才、嫌いではない、好きなものもあった、苦手、よくわからなかった、好きなものもあった、好きなものもあった、微妙、くやしいけど好き、わりと好き、よくわからなかった、意外と好きではない(長編のほうが面白い)、です。

*24:さいきんサノバウィッチでみた。

*25:アンスコムとギーチは……してないか。

*26:もちろん現実の法実践は事実としての他行為可能性を伴う自由意志を求めてるわけではなく社会的に構成されるものとしての自由意志の話をしていたりでそんなに素朴ではないのだが、とはいえ責任刑法がその理論に運を組み込むのはかなり難しいし、可能だったとしても大手術になるだろう。

*27:もちろん単なる法的な議論ではなく道徳的な議論として。こんなことを訊かれるのは道徳な議論を援用した法的な議論の場合が多いだろうが。

*28:そして師匠の(ウィリアムズは弟子だと思ってないがなんかツンデレっぽくてかわいいな)ヘアにけっきょく功利主義者やんけと突っ込まれたらしい。

*29:とまえにオックスフォード哲学者奇行で読んだ気がするが、もうネットでは読めないみたい。本は買ってない。すみません。

*30:だとしたらその使い分けを決定するメタなひとつの理論があることになってしまうが